長徳寺の概要・沿革

 日本への仏教の伝来は、朝鮮半島にあった百済、新羅、高句麗の三か国の一つである百済国からで、538年のことであったといわれています。

 「長徳寺」の起源は、推古天皇の時代(554年~628年)にさかのぼり、日本と交易のあった百済国の聖明王の第三皇子であった琳聖太子が、日本の聖徳太子に会いに行く際に、この地を訪れて良い場所であるとされ、この地にお寺が開創されたといわれています。
 当時の場所は、現在の位置から川を隔てた山の中腹部にあったようです。

 飛鳥時代・奈良時代には、法相宗のお寺として法隆寺や薬師寺が建立されましたが、当時の長徳寺も法相宗のお寺でした。

 室町時代、当時の周防国の守護職大内家の二十四代当主大内弘世公によって、小京都と呼ばれる町づくりが行われる中、周防国に周防国三十三観音霊場がつくられ、当山は観音霊場第九番の札所となりました。

 慶長年間(1596年 – 1615年)、曹洞宗 渓月院七世住職 丹翁宗鷟大和尚により、曹洞宗のお寺として再興されました。

 元禄2年(1689年)、長徳中興 黙室列禅大和尚により、当時、乗船山と称されていた現在の地にお寺を移し、もとの山号であった「鳴谷山」が、そのまま山号として使用されました。

 文化11年(1814年)、春彼岸の観音縁日に合わせ、農具市が興行され、これより長徳寺市として開催されてきました。

 元治元年(1864年)、立野地区の領主であった清水美作親春が、地域内の子弟の教育を目的に慕義塾を当山に創設し、塾生の教育にあたりました。塾で学んだ者の中には、第二奇兵隊に参加する人もありました。遠く、膳所藩から当塾に参加した村田精一の墓は、歴代住職の墓の隣に建立されています。

 大正15年、周防村の住民によって境内の一画に忠魂碑が建てられ、日清戦争、日露戦争、第一次、第二次大戦によって亡くなられた周防村出身者の方々が合祀されました。

 昭和23年2月、多くの中学生が学べるよう鳴谷山上に周防中学校が建てられました。山上の校庭内でバレーボールやテニス、野球などが行われ、多くの中学生がこの地で学生生活を送りました。

 昭和42年4月、周防中学校が島田中学校に統合され、周防中学校の校舎は光市内の小学生による野外活動(教育キャンプ)に使用されました。夏休み期間中には、境内に多くのテントが張られ、「周防の森ロッジ」が平成8年7月にオープンするまで、小学生の野外活動に使用されました。

 平成12年3月、本堂の老朽化が激しくなってきたことから、新たな本堂が再建されました。

 平成27年11月、葬儀や法事などに利用することができる鳴谷会館(水月堂)が整備されました。

 平成30年頃から鳴谷山の北東部に繁茂した竹林を伐採・整備し、山上から熊毛、岩国市周東方面の見晴らしがよくなりました。
 現在、山上から四季ごとの周防地区の景色や島田川の様子を望むことができます。

長徳寺の旧本堂
鳴谷山を上空から望む(平成27年10月撮影